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「柳瀬正夢 そして セカール」

 現代画廊の洲之内徹さんが本の中で取り上げられていた画家、“柳瀬正夢1900-1945展”(2014年2月11日~2014年3月23日 神奈川県立近代美術館葉山)の会期終了間際、見ておきたいと朝早く起きて出かけた。
 展覧会を見て感じたことを文章にしようと思いながら時間がたった。図録の中で小林勇が「多くの研究者が五年十年の時間をかけ研究すれば壮大な激動期の日本の歴史書ができる。」と書いている。
 早熟だった柳瀬は14歳、画家を目指し同郷の水木伸一を頼って上京、その時水木は村山槐多と同居していた。槐多は「僕のChigo san」と同性愛的言葉を残している。そのころ18歳の槐多は第1回二科展出品作を横山大観が買い上げ「みづえ」にも取り上げられ高揚した時期に重なる。柳瀬も1915年15歳で院展に入選し、早いデビューをはたした。
 戦前までの洋画史は夭折の画家達で形作られてきたことは、絵画全集に組み込まれる作家からも動かしがたい事実だ。しかし当然若く感受性の鋭敏だと言われる年齢でただ早く死ねばよいということではない。以前は結核が死の病であり早世の作家たちは十代で小児結核に罹病、長く生きられないこと、死を常に意識しながら生きなければならない宿命を持っていた。そのことが短い生涯にある完結性を与えた。
 柳瀬は1900年に生れ1945年終戦の年に亡くなった。あまたの早死にの作家に比べ特別早い死でなかったかもしれない。しかし展覧会を見てもう少し彼に生命を与えてあげたい思いに駆られた。それは新宿で空襲にあい偶然生命が途切れて生としての完結性がないと感じたから、彼には多方面で膨大な仕事のまとめ方を見せてもらいたいと思えたからだ。
正月6日生まれ 正六と名づけられ“ひょうろくだま”と呼ばれるのを嫌い竹久夢二にあやかって正(まさ)夢(む)とした。彼は若き日の作品で世界の美術の潮流に鋭敏に反応した味わい深い作品を残している。自伝で1923年の関東大震災を生年日と書き、その後プロレタリア画家へと傾斜する。ネジの頭をサインに使い社会で重要なネジの役割を果たそうとした。無産者新聞でのプロレタリア漫画、治安維持法容疑での逮捕、過酷な拷問。出所後はそのような活動はできず、地方に出かけて油絵の写生画を多く描いた。しかし出所後の作品は官展系の平板な作品に思え、彼が死の間際まで人に見せる目的でなく十代の作品を持ち歩き続けたこと知り、感性としての持ち味 思想 社会情勢 哲学 多くの才能をまとめ上げ、提示できる時間を与えてあげたいと思えた。
 柳瀬の展覧会と同じ会期で鎌倉別館ではチェコスロヴァキア出身の彫刻家ズビネック・セカール(1923-1998)が特集展示されていた。20世紀の最も重要な彫刻家?といううたい文句。よく知らなかった彫刻家だったが確かにそのとおりだと感じた。
 若い日ナチスに収監され死と隣り合わせのなか生き延び、戦後、彫刻家と認められるまで翻訳家、出版社と多くの仕事を経験したセカールにはそんな時間があったように思える。社会へのアピール、訴えること、なにが重要かといったことを作品に昇華させる時間があり、作品は説明的な要素が抽象化され純化されて、体の奥底までドーンと語りかけてくる。目を閉じれば雑多な要素が消え脳波を動かすオーラが残る。同じ日に二作家の作品を見、それからは作品の持つ強度について思い巡らすことが多くなっている。

 





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